ミドルシニアの羅針盤レター
 2025#1

第1回 キャリアは“会社が与える”ものではない

― 制度やスキルでは届かない「内なる停滞」へのまなざし ―

トレスペクト教育研究所の宇都出雅巳代表に、キャリア自律における「聞く」ことの重要性について語っていただきました。
全4回シリーズの第1回目です。

 「もう、この年齢になったら、自分のキャリアなんて考えても仕方ないですよ」 企業研修の現場で、50代社員が漏らした一言。人事・人材開発担当者であれば、日頃から耳にされているのではないでしょうか。

 実際、パーソル総合研究所の調査では、約45.5歳の時点で「キャリアの終わりを意識している人」が、「意識していない人」を上回るという結果が出ています。

 これは、単なる定年へのカウントダウンではなく、自身の成長や貢献の可能性が閉ざされていくような感覚──いわば、静かに心の奥底に広がっていく「内なる停滞」です。 この「内なる停滞」は本人のキャリア意識を蝕むだけでなく、経験豊富な人材の潜在力を活かしきれないという点で、経営的にも看過できない問題です。そこで注目されているのが「キャリア自律支援」です。これは、社員一人ひとりが自らの価値観や強みを見つめなおし、自らの意思でキャリアの方向性を選択し、行動していけるように支援する取り組みを指します。

■ 既存の「キャリア自律支援」が届かない理由
 多くの企業がリスキリングや越境学習などの制度を整え、「キャリアは自分で考えよ」とメッセージを発しています。しかしその声が「会社からの一方的な命令」に聞こえてしまうと、社員の心には届かず、かえって無力感や反発を生んでしまいます。 特にミドルシニア層にとっては、役職定年によるモチベーション低下や収入減少、終身雇用の終焉に伴う漠然とした不安、さらには急速な技術革新による経験の陳腐化など、現実の厳しさが加わります。

 こうした中で「キャリアを自律的に考えろ」と促されても、「また会社の都合か」「責任を押しつけているだけではないか」といった疑念が先に立ち、行動につながらないのです。 そこには、長らく日本型雇用を支えてきた「会社主導型キャリア」と、「自分のキャリアは自分でつくる」という「自律型キャリア」という新しいパラダイムとのあいだの構造的な摩擦があります。

 特にミドルシニア層の一部には、会社の施策や研修に対して無関心、あるいは懐疑的な態度を示す人も少なくありません。 研修に関心を示さない、面談でも多くを語らない──あるいは語り始めたと思えば、会社への不満や過去のしこりが噴き出す。時には、研修講師やファシリテーターに対して強い反発(いわゆる「ファシリテーターアタック」)が見られることもあります。

■ 「すねている層」こそ、変容の鍵を握る
 一見すると「やる気がない」「拒否している」ように見えるこうした態度は、企業の現場では「すねている」と表現されることがあります。私はこの「すねている層」こそ、変容のきっかけを最も秘めた存在だと捉えています。 なぜなら、こうした態度の背後には、「本当は何かを変えたい」「でもどうせわかってもらえない」「信じたところでまた裏切られるかもしれない」といった、期待と諦め、信頼と不信が交錯する複雑な感情が横たわっているからです。

 私のコーチングの先輩であり、多くの大企業での対話実践を牽引する加藤雅則氏は、対話の最初は会社や上司への愚痴や不平といった「泥水」のような言葉から始まり、それが「聞く」「聞かれる」という対話を通して変わっていくと語っています。

 加藤氏の著書『自分を立てなおす対話』(日本経済新聞出版社)が示すのは、会社への不平不満、仕事への愚痴といった<本音>の泥水から、「実は、わたしは~したかったんだ」とポロッと出てくる<本心>、そして「わたしは~をやるぞ」と主体的に語り始める<本気>の「清水」が湧き出る対話のプロセスです。最初から“清水”を求めるのではなく、“泥水”こそが対話の出発点だと捉える姿勢が重要です。むしろ、泥水を避けたり否定したりすることなく、そのまま受け止めることでこそ、本音にふれ、やがて本心と本気につながる可能性がひらかれるのです。

■ 「聞くこと」がひらく、キャリア自律と組織の未来
 私は2001年にコーチングと出会い、その後、トレスペクト教育研究所の代表として、20年以上にわたり、1対1のコーチング、コーチング研修やマネジメント研修の現場において、1万人を超えるビジネスパーソンと向き合ってきました。この実践経験から、私は無関心とも思える態度、不平不満、愚痴といった言葉の奥にある真の願いを引き出し、ミドルシニア層の「内なる停滞」を突破するには、「聞く」という、多くの人が当たり前にできていると思っている行為を学びなおし、参加者自身が「聞く」「聞かれる」という対話体験を通じて、「泥水」を「清水」へと変容させることが不可欠であると考えています。

 記憶に残る場面があります。前述の加藤氏とともにリードした、ある製薬メーカーでのコーチング研修のことです。開始当初は、「また会社主導の研修か」と冷めた空気が漂い、一部の参加者は斜に構えていました。ところが、参加者同士が「聞く」「聞かれる」対話を重ねる中で、参加者の中で一目置かれていたベテラン社員が自らの内面を語り始めた瞬間、場の空気が一変したのです。

 「聞く」という営みが、場全体の空気を変え、閉ざされた心を少しずつ開いていく。この体験は、私にとって「聞く」「聞かれる」ことが個人の変容を促し、それが場、そして組織の変容を促す力を持つことを改めて確信させるものでした。

 本連載では、ミドルシニア層の「内なる停滞」という経営課題に対し、「聞くこと」がいかに社員の内なる回路を開きなおし、真のキャリア自律を促すのかを、コーチングや動機付け面接といった対話手法、さらにはこれまでの研修の実践知を交えて考察していきます。これは単なる問題解決にとどまらず、ミドルシニア層が持つ「叡智」を組織内で再活性化させるための戦略です。「聞く文化」を組織に根づかせることは、単なる個人支援にとどまらず、組織全体のレジリエンスや創造性を高める基盤ともなりうるのです。


■ 次回予告
 本連載では“聞く力”がミドルシニア層の「内なる停滞」をいかに突破し、組織の活性化に貢献しうるのかを、具体的な知見を交えながら深掘りしていきます。次回は、「聞く」「聞かれる」ことが個人の変容をいかに引き起こすのか、そのメカニズムを掘り下げ、企業が実践できる具体的な対話設計のヒントも紹介します。

【筆者プロフィール】
宇都出 雅巳(うつで まさみ)
トレスペクト教育研究所 代表
東京大学経済学部、ニューヨーク大学スターンスクール(MBA)卒。東洋経済新報社、コンサルティング会社、シティバンク銀行を経て、2002年にトレスペクト教育研究所を設立。以来20年以上にわたり、1対1のコーチングならびにコーチング研修、マネジメント研修に従事し、10,000人を超えるビジネスパーソンと向き合う。2007年、国際コーチ連盟認定PCC(プロフェッショナル・サーティファイド・コーチ)取得。コーチングに加え、さまざまな心理療法、認知科学の知見も生かした独自の「聞き方」を提唱。著書は『絶妙な聞き方』(PHP研究所)、『仕事のミスが絶対なくなる頭の使い方』(クロスメディア・パブリッシング)など25冊を超える。訳書に『コーチング・バイブル―人の潜在力を引き出す協働的コミュニケーション』(共訳、東洋経済新報社)、『応用インプロの挑戦―医療・教育・ビジネスを変える即興の力』(共訳、新曜社)がある。


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