人的資本の情報開示に備える

 東大大学院 大木准教授による集中連載、最終回となる今回は、人的資本に関する情報開示について解説していただきます。

 これから、多くの企業が人的資本の情報開示を進めていくことになると思います。
その代表的なものとして「ISO30414」を挙げることができます。
これは、人的資本の情報開示に関するガイドラインであり、これに合わせることで最低限の対応ができると考えられています。
具体的な項目の説明は省きますが、人的資本について定量的な情報を開示することを前提に、定量的な測定の手法などが紹介されているのが特徴です。
また、定性的な情報で重要なものについても、望ましい開示方法について参考となる情報が明示されています。
よって、「ISO30414」のような標準的なガイドラインに沿うことが、まずは無難と言えるでしょう。

 なお、筆者自身「ISO30414」に準拠した項目で、人的資本の情報開示度を測定する「Human Capital Disclosure Index (HCDI)」という尺度の開発および分析を行っています。
この尺度を使うことで、特定企業の人的資本の情報開示度を可視化することができます。
例えば、【図1】は2022年8月2日時点の、東証プライム上場企業の時価総額トップ20社のHCDIの平均値です。
これを見ると時価総額の高い優良企業でも、経営の情報開示はまだ進んでいないことが分かります。
なお、細かい測定方法などは、筆者のホームページをご覧ください

東証プライム上場企業の時価総額トップ20社のHCDIの平均値

 ここで、留意していただきたいことがあります。
それは、手段と目的の逆転です。
情報開示という「手段」は、その企業が人的資本の投資に対して戦略的に取り組んでいることを、投資家を含むステークホルダーに伝えるという「目的」のために行うものです。
「情報開示ができていない企業は評価されない」というのは事実ですが、「情報開示をすれば必ず良い企業と評価される」わけではないのです。
しかし、往々にして「手段」と「目的」の逆転は生じます。
例えば、経営者が人事部やIR担当者に「情報開示というトレンドがあるらしいから、何でもよいから情報開示しろ」と指示すると、情報開示自体が「目的」になりがちです。
その結果、「進んでいると言われている他社をとりあえず真似しておこう」というような思考停止につながることもあります。
しかし、これらは「遅れないため」のその場しのぎの対応にすぎません。
今求められているのは、人的資本の情報開示のトレンドを戦略的に利用しようという前向きな姿勢ではないでしょうか。

 では具体的に、ビジネスパーソンは人的資本の情報開示時代にどのように備えればよいでしょうか?
「経営層」「ミドル層」「新人層」の三つに分けて考えてみたいと思います。

 まず、「経営層」の皆さん。
これを機会に改めて自社の事業戦略と人材戦略の関係を考えてみることが望ましいでしょう。
自社の事業戦略と人材戦略は本当に結びついていますか?新卒を社内で適当に育てればよしと、これまでの惰性で人材戦略を考えていませんか?または、トレンドだからという理由で、「AI人材」「DX人材」というような「○○人材」を採用・育成しようとしていませんか?人材は、企業が事業戦略を実行するために必要な経営資源の一つです。
そのため、事業戦略を踏まえずに人材を採用・育成しても、企業の成功にとって有用な経営資源になるとは限りません。
「最近は良い人材がいない」と愚痴る前に、まずは自社がどういう戦略で、そのためにはどういう人材が必要なのかをしっかり提示することが必要です。
それを提示したうえで、その戦略にいたるための人的資本への投資を考え、その情報を開示することが求められます。

 次に「ミドル層」の皆さん。人的資本に関する情報開示のトレンドを、自らの部署にスポットライトを与える機会として捉えてみませんか。
経営者が人材戦略を打ち出してきたら、それに対して最もコミットできる組織を作り上げてみてください。その際には、人的資本にどのような投資を行ったのか、その結果どのような人的資本が蓄積されたのか、さらに最終的なパフォーマンスはどう変化したのか、といった、人的資本の情報開示に使える定量的なデータを準備しておきましょう。
経営者は人的資本への投資状況とその成果を公開したいと考えていますので、そうしたデータを出せる部署には当然注目が集まります。
また、既に人的資本に関するデータを蓄積している部署があれば、経営層に「自分たちの部署であれば、いつでも人的資本の情報を、成果と紐づけた形で定量的に開示できます」とアピールをしてみたらいかがでしょうか。
経営層から注目が集まれば、その部署に今後も投資がなされるようになるでしょう。
特に一度外部に情報開示をすれば、次の年も投資家はその情報を見たくなるため、経営者は安易にその部署への人的資本投資を引き下げることはできなくなります。
これらは、いかに経営者の「アテンション(注目)」を集めるかという議論(経営学ではattention-based viewと呼ばれる議論)です。
人的資本の情報開示を、アテンションを集めるきっかけにするというのも一案ではないでしょうか。

 最後に新卒も含む「新人層」の皆さん。人的資本の情報開示を利用して、自らが所属すべき組織を評価しましょう。
人的資本の情報開示ができていない企業は、もしかすると人を大事にしていない企業かもしれません。開示された情報を見て、より自分が必要とされている企業を選んだり、自分の進みたい方向性と近い企業を選んだりすることが望ましいでしょう。
企業選びの判断材料が増えますので、よりよい意思決定ができるようになるでしょう。
ただし、勘違いしてはいけません。
新人とはいえ会社の戦力であり、お客さんではありません。
開示された情報を元に自分で企業を選んだのであれば、その企業があなたをだましていない限り、あなた自身もその企業に貢献する義務が生じます。
自ら主体的に会社を選ぶ権利を得たことで、義務も発生するわけです。
こうすることで、真の意味で会社と対等な個人の関係を築くことができるのではないでしょうか。

 以上、人的資本の情報開示について説明してきました。
人的資本の情報開示のトレンドを皆さんが上手く活用することで、多くの方がより輝ける社会につながることを願っています。

【筆者プロフィール】
大木清弘(おおき・きよひろ)

東京大学大学院経済学研究科 准教授
2007年東京大学経済学部卒業。
2008年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。
2011年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。
2012年東京大学博士号(経済学)取得。
関西大学商学部助教。東京大学大学院経済学研究科講師を経て、2020年より現職。

研究分野は国際経営論、国際人的資源管理論。
現在は海外子会社のパフォーマンスに関する研究に加えて、日本企業の人的資本の情報開示に関する研究、若手社員を中心とした企業プロジェクトに関する研究を行っている。
実務に近い研究と学術的な研究の二刀流を目指している。
2009年国際ビジネス研究学会優秀論文賞、2015年国際ビジネス研究学会学会賞。

著書に『多国籍企業の量産知識』(有斐閣 2014年)、『新興国市場戦略』(有斐閣 2014年,共著)『コア・テキスト国際経営』(新世社 2017年)など。その他、学術論文多数。


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