企業における人的資本とは?

 経済産業省が中心となって人的資本コンソーシアムを設立するなど、「形のない資本」として注目を集めている「人的資本」。
企業の中長期的な成長にも大きく貢献すると言われています。
星和HRインフォメーションでは、今週から3週にわたって、人的資本の研究者である東京大学大学院 経済学研究科 大木清弘准教授にお話をうかがっていきます。

 皆さんは、「人的資本」という言葉をご存じでしょうか?
近年、「人的資本」という言葉が、経済界で盛んに飛び交うようになっています。
図1は日本経済新聞各紙で「人的資本」という言葉が出た記事数を調べたものですが、昨年から記事数が急激に増えていることが分かると思います。

 こうしたトレンドにさらに拍車をかけたのが、岸田内閣の方針です。
2022年6月、岸田内閣は「新しい資本主義」を実現するための基本方針を提示しました。
その中で言及されているのが「人への投資」であり、企業に対して「人的資本の情報開示」を求めるという方針が閣議決定されています。
この動きは世界の潮流に合わせるものであり、「人的資本」に基づく経営は、世界のトレンドとなりつつあります。

日本経済新聞各紙における「人的資本」という言葉を含む記事数


 私が担当するコラムでは、「人的資本」とそれをめぐる近年の動きについて、情報提供させていただきます。
皆さんが、「人的資本」に関連したトレンドを理解するための手助けとなれば幸いです。

 まずは、そもそも企業にとっての「人」はどのような意味を持つのかについてから考えていきましょう。私が専門とする経営学という学術分野では、企業が競合に勝つ主要因は「経営資源」であるという考え方(Resource Based View:リソースベーストビューと呼ばれる)があります。
その際の経営資源として広く知られるのが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」の4つです。
「ヒト」とはまさに人材のことであり、優秀な社員がいる企業は競合の点有利になるというのは自明かと思います。
「モノ」とは保有している設備や建物といった物理的な資源のことであり、例えば他社よりも効率的に生産できる設備を持っていれば、その分競合よりもコスト競争力を持てるようになります。
「カネ」は株式なども含めた運営資金のことであり、金銭的に余裕のある企業は大胆な手も打てるため、競争上有利になることが多いです。
最後に「情報」ですが、顧客情報、技術、特許等といったものであり、他社が持っていない情報を保有している企業は当然競合を出し抜くことが出来やすくなります。
このように4つの経営資源は、どれも企業の競争にとって重要なものです。

 これら4つのうち、投資家が企業を評価する際、当初は「モノ」や「カネ」が重視されてきました。
それは「モノ」や「カネ」は金銭的評価がしやすく、これらの資源を豊富に持っている企業とそうでない企業との差異が分りやすいからです。
しかし、「モノ」や「カネ」が豊富な企業は、競合との競争において有利に立つとはいえ、それだけで競争に勝てるとは限りません。
「モノ」や「カネ」がなくても、新技術などの「情報」をベースに優位に立つ企業が存在しています。
むしろこうした企業の方がライバルに追いつかれにくい(経営学の用語で「持続的競争優位にある状態」)ため、長期的な強みの源泉として、企業が保有する「情報」の価値により注目が集まるようになりました。
経営学でも、こうした「情報」はしばしば「知識」と言い換えられ、どのように新たな知識を生み出すか、その知識をどのように共有するか、といった議論がなされてきました。
読者の皆さんの中には、「知識経営」という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるかと存じます。ちなみに、提唱者である野中郁次郎先生は、世界で最も有名な経営学者のお一人です。

 では、この情報や知識を生み出すのは誰か、という話になります。
多くの場合、それは「ヒト」です。
優秀な研究者が新技術を生み出しますし、優れた経営者が新たなマネジメント方法を生み出します。また、特定のリーダーだけでなく、「ヒト」が組織・チームで活動することで新しい知識を生み出すこともあります。
もちろん、AIなどが勝手に知識を生み出す可能性もありますが、現状ではその段階には至っていません。
そのため、改めて「ヒト」という経営資源に注目が集まってきているのです。

 この「ヒト」という経営資源を議論する際に、一部の有識者は「人的資源」ではなく、あえて「人的資本」という言葉を使っています。
それは、「資本」という言葉を使うことで、「ヒト」は単なる消耗品ではなく、企業の中に蓄積されていくものであり、さらに「投資」を通じて付加価値が増すものである、というニュアンスを込めることが出来るからです。
例えば、新卒で新人を採ってきたとしても、すぐに使いものになるわけではありません。
しっかりとした教育を施すことで、長期的に投資した金額の何倍もの付加価値を生む人材となります。
また、外部から優秀な人を採ってくれば必ず活躍してくれるとも限りません。
スポーツチームにおいてスター選手を集めても強いチームにならなかった事例は散見されます。
外部から人材を採ってきても、その組織における自分の役割を修正したり、他のメンバーとのコミュニケーションの取り方を学んだりと、馴染むまでには一定の時間が必要です。
他社と差別化できるような人的資源を保有するためには、短期・長期の投資が必要であり、長期的な目線が必要なのです。

 特に「ヒト」への投資は、単年度で見れば、人件費や教育費といった支出にすぎません。
そのため、業績が悪い時はこれらの費用を削ろうと考える経営者も出てくるでしょう。
しかし、人件費や教育費は人的資本への投資であり、長期的には何倍にもなってくるかもしれません。逆に言えば、短期的な視点で削ってしまえば、長期的な利益を損なう可能性があるわけです。そう思うと、「ヒト」への投資は安易に削ってはよいものではないと感じられるのではないでしょうか。「人的資本」という言葉を使うことによって、我々は「ヒト」に対して長期的な視野に基づいた投資が必要である、と考えるように習慣づけられます。
もし「ヒト」に興味のある方がいらっしゃったならば、これを機会に意識して「人的資本」という言葉を使ってみたらいかがでしょうか。

 次回はこの「人的資本」の情報開示のトレンドについてご紹介します。

【筆者プロフィール】
大木清弘(おおき・きよひろ)

東京大学大学院経済学研究科 准教授
2007年東京大学経済学部卒業。
2008年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。
2011年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。
2012年東京大学博士号(経済学)取得。
関西大学商学部助教。東京大学大学院経済学研究科講師を経て、2020年より現職。

研究分野は国際経営論、国際人的資源管理論。
現在は海外子会社のパフォーマンスに関する研究に加えて、日本企業の人的資本の情報開示に関する研究、若手社員を中心とした企業プロジェクトに関する研究を行っている。
実務に近い研究と学術的な研究の二刀流を目指している。
2009年国際ビジネス研究学会優秀論文賞、2015年国際ビジネス研究学会学会賞。

著書に『多国籍企業の量産知識』(有斐閣 2014年)、『新興国市場戦略』(有斐閣 2014年,共著)『コア・テキスト国際経営』(新世社 2017年)など。その他、学術論文多数。


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